大蓮寺について
ようこそ、我がホームページへ。(なぜ、ここで特に大蓮寺なのかって?。それは、私が大蓮寺の住職だからであります。悪しからず。)
 
山号は天沢山(てんたくざん) 曹洞宗(禅宗)
応永28(1421)年、羽茂城主本間家の菩提寺として越後の種月寺の第3世本嶽宗悟禅師を拝招して開山したものである。当初は2Km離れた井尻にあり、その後羽茂城域に移転、享禄年間に現在の地に移転された。境内には椿の木が320種類ほど植えられ、椿の寺と言われている。10数年前から私が植え始めたもので、木はまだ小さいが4月中旬頃が見ごろである。

  
本尊様は阿弥陀如来様です

山門
県の文化財。天正17(1589)年に、越後上杉氏の佐渡攻略により羽茂城は落城したが、その時焼失をのがれた東門を、移築したものである。
   

参道の入口(羽茂川の横)の総門は、私が、日曜大工によって建てた門である。(総工費300万円也)袖の部分を後で改築し、仁王様をお迎えした。


五百羅漢堂
寛文4(1664)年、江戸の仏師による建立である。堂内には30pほどの羅漢の塑像(500体)がぎっしりと並んでいる。天井の龍の絵は、月夜の晩になると絵から龍が抜け出し、羽茂川に水を飲みに出たといわれる。住民が恐がったため龍の目に釘が打たれ、以後出なくなったとされる。
縁起
大蓮寺15世高嶽梵道和尚が、夜「素浜海岸」に仏像が漂着する夢を見て、翌朝その海浜に行くと、砂浜で船乗り風の2人の男が争っていた。訳を聞くと、両人の間に有る千両箱のことでお互いが「おまえが先に見つけたのだからおまえのものだ。」と争っているのであった。拾ったお金を他人に譲るとは感心なことだと思っているうちに、両人の姿が何時しか消えたのである。
和尚は、数日前に難破船があったと聞くが、その亡者が供養を依頼したものであろうと千両箱を持ち帰り、寛文4年(1664年)江戸の仏師松尾勘左エ門に五百羅漢堂の建立を依頼し、水難者の供養を行ったのである。
以前は墓地下の低地に、間口8間奥行き6間の壮大な建物であったが、腐朽甚だしく昭和33年解体し内陣のみを現在地に移築したものである。
    
マリア観音像
山門の傍らのお堂に祭られているが、秘仏なので公開はしない。木造観音像の体内仏として有名である。400年くらい前、中国の福建地方で作られた陶製の仏像。子どもを抱いているのでマリア観音像と言われているが、像のどの部分にも十字架はなく、隠れキリシタンとは無関係で、純粋の子安観音像と思われる。
   

鐘楼堂
明治時代に建てられたようである。

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