会社概況 > 佐渡南蛮物語

佐渡南蛮物語

江戸時代初頭に中国から伝来した唐辛子は急速に日本全土に普及栽培され、それぞれの地方の気候風土に なじんだ独特の風味を形成してきました。
唐辛子はこのように『南蛮渡来』の故をもって、そのものズバリ『南蛮』と呼ばれるようになりましたが、 佐渡が島の呼称もそれ。ズバリ『南蛮』と呼ばれます。
もう一つの渡来品味噌は、今から1200年前の奈良朝時代にやはり中国大陸から伝播伝来して、津々浦々の 気候風土の影響をうけて様々な形で今日にいたります。
佐渡が島は、明治・大正から昭和40年代にかけて日本一の味噌生産地として知られるところとなりました が、その原因は他ならぬ『北前船』の影響によるものでありました。
新幹線・高速道路・飛行機・新聞・ラジオ・TVのない時代の唯一にして最大の情報と物流の手段は、そ れまさしく海と船でありました。
ここに佐渡が島は、北前船の重要な寄港地として江戸・東京の最新の情報がいち早く伝達され、物流も裏 日本全土の要として重要な働きをいたしました。
この佐渡固有の南蛮と、蓄積された佐渡味噌の技術が融合したもの、それが『佐渡のくせ者』であり、そ こから様々な味覚の情報が発信されます。
どうぞ、この自慢のレッド・スパイス・スピリットをご賞味下さい。

佐渡文化の旗手
北前船

マルダイの法人設立登記は1898年、嘉永年間のあと、日本最古の企業法人の歴史を刻みました。 あのペリー黒船来航の時代周辺でした。

南佐渡
南佐渡の風物・たらい舟
佐渡が島は、S字形の地形を中央のくびれで南北に別れ、南佐渡・北佐渡と称されそれぞれに独自の気候風土を有し歴史を刻ました。
北のそれがシベリアおろしの過酷な風雪にもまれるのに対して、南佐渡の気候は暖流の影響をうけて南国の蜜柑やバナナを産する穏やかさにあります。
例えば『たらい舟』、穏やかな海でこそ可能な漁船のひとつ。その中で栽培される赤南蛮と味噌醗酵の技術が融合するもの、それが『佐渡のくせ者』です。
今は昔、たらい舟は、南佐渡小木町の名物。はじめは岩礁の間をスルスルぬって魚介類を捕獲する便利戦略舟。今はすっかり観光の名物になってしまったが、それでもお祭りのたらい舟競争や子供の遊び舟として生活になじむ。


ガラス箱とやすで獲物をねらう

集落の子供が競う

赤泊村の港まつり

観光タライ舟・小木港

荒波ではたらいは使わない

いざ出漁ワカメ解禁の朝

観光タライ舟

タライ舟の里・小木半島

人工都市・相川
今は昔、直接金山に従事する者10万人、総人口20万人の巨大人工都市を形成した金山の町、相川。
そこにはその名残として、様々の町名が残っています。例えば、味噌屋町・炭屋町・米屋町・大工町・鍛冶屋町・寺町等それぞれの専門職人が住居した証拠・形跡が随所に点在します。
味噌屋町には一体何人の職人が味噌をつくっていたものかと興味津々のところがあります。又、元禄の幕府経済をとりしきった荻原重秀親子の流罪地としてのお墓や、佐渡金山開発に神業的な透視力を発揮した山師味方但馬のお墓もここにあります。
ともかく相川にはお寺の数が多い。とても現在の相川の人口をベースにして類推は出来ないほど多い。その数多いお寺が一団となって寺町を構成し、それぞれのお寺にはそれぞれの歴史・因縁・縁起があり、これをわかりやすくガイドカードにして門前に掲げる。
一見の価値あり、相川寺町。


相川奉行所

日本経済を
支えた金山

味方但馬の墓がある

相川の史跡味噌屋町

味噌屋だけで町を
構成していた